簿記を習うと、最初にここでつまずく。借方が左、貸方が右。
借りているのに左、貸しているのに右。しかも自分が商品を買っただけなのに借方に書く。なぜそうなるのかを教科書は説明せず、「借と貸の意味にはこだわらないでください」で済ませる。
こだわらないでくださいと言われると、余計に気になる。調べてみたら、理由は500年前の本にも書かれていなかった。
この記事は育ちます。公開後も、会話パート・トーク・補足を足していきます。
公開 2026-09-24 / 最終更新 2026-09-24(公開)
水深 — パチョーリは複式簿記を発明していない
複式簿記といえばルカ・パチョーリ、という話になっている。
実在の人物だ。1447年ごろイタリアのサンセポルクロに生まれ、1517年6月19日に同じ町で亡くなった、フランシスコ会の修道士。数学者でもあった。
1494年11月10日、ヴェネツィアで『スンマ』(算術・幾何・比および比例全書)という本を出した。全10部、600ページを超える大著だ。
その第9部——商業を扱う約150ページのなかに、「計算と記録について」という一節がある。全36章。ここに複式簿記、試算表、貸借対照表が書かれている。
ただし——パチョーリは複式簿記を発明していない。
彼がやったのは、当時の北イタリアの商人がすでにやっていたことを、印刷物として初めて体系的にまとめたことだ。研究者は彼の記述を「ヴェネツィアの方式」と呼ぶ。1494年より前のヴェネツィアの卸商の帳簿は、現存しているものがすべて複式だという。ヴェネツィアでは15世紀の初めには複式が標準になっていた。
しかも先行する文献もある。ベネデット・コトルリという商人が1458年に書いた写本に、ほぼ同じ方法が記されている。ただしこちらが印刷されたのは1573年で、パチョーリより79年遅い。
「最初に書いた人」ではなく、「最初に印刷した人」。それがパチョーリの位置だった。
『スンマ』はどんな本だったのか
この本について、少し数字を並べておく。
- 刊行 1494年11月10日、ヴェネツィア
- 印刷者 パガニーノ・パガニーニ
- 言語 ラテン語ではなくイタリア俗語
- 分量 初版で約615ページ
- 印刷部数 約1,000部
- 現存 約120部
注目したいのは言語だ。当時の学術書はラテン語で書くものだった。パチョーリはあえて俗語——つまり普通の商人が読める言葉で書いた。
だから広まった。学者向けではなく、実務家向けの本だった。
ときどき「グーテンベルクの活版印刷が始まって間もない、最初期の印刷本のひとつ」と紹介されるが、これは少し盛りすぎだ。1494年はグーテンベルクから約40年後で、印刷はすでに普及していた。正確には「印刷された最初の主要な一般数学書」あたりが妥当らしい。

起源は12世紀。動機は「裁判で証拠になること」だった
では、誰が始めたのか。ここは近年の研究で見方が変わってきている。
2025年に出た研究によれば、起源は12世紀の北イタリアの両替商=銀行家にさかのぼる。分析対象になっているのは1211年のフィレンツェの元帳だ。パチョーリより280年前になる。
動機が面白い。会計技術を洗練させたかったからでも、資本主義の発展のためでもない。
良質な鋳貨が足りなかったのだ。
まともなコインが十分に流通していないので、取引は信用で回すしかない。「貸した」「借りた」の記録が、そのまま財産になる。しかもイタリアは都市ごとに法制度が違ったので、どの法廷に持ち出しても証拠として通る形が求められた。
複式簿記は、儲けるために生まれたのではなく、揉めたときに証明するために生まれた。
そう考えると、いまの会計基準が国際的な比較可能性を求めているのと、構造としては同じ問題を解いている。800年ずっと同じことをしていることになる。
「現存最古」は、ひとつに決まらない
複式簿記の最古の記録は何か。調べてみると、答えが割れていた。
- 1211年 フィレンツェの両替商=銀行家の元帳。最新研究の中心資料
- 1299〜1300年 ファロルフィ元帳。記帳者はアマティーノ・マヌッチ。長く「現存最古の複式簿記」とされてきた
- 1340年 ジェノヴァ共和国の財務官(マッサリ)元帳。現存最古の官庁複式元帳
- 1380年代〜 ダティーニ文書。イタリアのプラートに残る、量と完全性で最重要のアーカイブ
ややこしいのは、「完全な複式簿記一式」の定義そのものが争点になっていることだ。
ファロルフィ元帳は最古とされてきたが、断片で、完全な一式ではない。ジェノヴァの1340年は完全性が高いが最古ではない。1211年の元帳は古いが、これを「複式」と呼べるかどうかで研究者の見解が分かれる。
「複式簿記はいつ生まれたか」に一行で答えられないのは、何をもって複式と呼ぶかが決まっていないからだった。
ちなみに「11世紀のカイロのユダヤ人銀行家が起源」という説も見かけたが、これは最新研究と矛盾する。裏づけも弱いので、ここでは採らない。
レオナルド・ダ・ヴィンチとの関係は、逆だった
パチョーリには有名なエピソードがある。レオナルド・ダ・ヴィンチと同居していた。
1497年ごろ、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに招かれ、二人は同じ宮廷にいた。パチョーリが書いた『神聖比例論』(1496〜98年執筆、1509年ヴェネツィアで印刷)には、レオナルドが描いた約60点の多面体の図版が入っている。パチョーリ自身は23の装飾大文字を作図した。
ここで注意したいのは関係の向きだ。
「レオナルドがパチョーリに影響を与えた」のではない。パチョーリがレオナルドに数学を教えていた。レオナルドは学びながら図を描いた。
1499年、フランス王ルイ12世がミラノを占領して二人とも脱出し、その後1506年ごろまで交流が続いたという。『神聖比例論』の写本は3点が現存している。
簿記の本を書いた人が、ダ・ヴィンチの数学の先生だった。関係ないようで、どちらも「世界を数と比で捉える」という同じ関心から出ている気もする。
借方が左である理由は、どこにも書いていない
本題に戻る。なぜ借方が左なのか。
パチョーリ自身の記述はこうだ。
すべての貸方は元帳の右側に、すべての借方は左側に置かれなければならない。元帳に記入されるすべての項目は、二重の記入でなければならない。
「置かれなければならない」とは書いてあるが、なぜかは書いていない。
調べた範囲では、左右の配置に文書化された根拠は見つからなかった。パチョーリより前からヴェネツィアでそうなっていた、というところで史料が途切れる。
ネットに流れている「◯◯だから左」という説明はどれも後付けだ。本質的には慣習ということになる。500年間、誰も理由を書き残さないまま守られてきた並び順だ。

語源をたどると、「信じる」に行き着く
言葉のほうは、はっきりしている。
- debit(借方)← ラテン語 debitum(負うもの)← debere(負う)。さらに分解すると de(離して)+ habere(持つ)
- credit(貸方)← ラテン語 creditum(託されたもの)← credere(信じる、託する)
creditの語源が「信じる」なのは、少し感動的だ。信用(credit)も信条(creed)も、同じ語から来ている。貸すという行為は、信じるという行為だった。
中世イタリアの実務では、もっと即物的な言葉を使っていた。dare(与える)が左、avere(受け取る)が右。銀行の元帳では「deve dare(支払うべし)」が左、「deve avere(受け取るべし)」が右に並んでいた。
それでも説明はつく——相手の側から見ていた
理由は書かれていないが、成り立ちからの説明はできる。
複式簿記は、貸し借りの記録から始まった。当時の帳簿は人名勘定——「誰それ」という取引先ごとの勘定が中心だった。
そして記帳するとき、自分ではなく、相手の側から見て書いていた。
相手が借りている状態(=相手が債務者)なら左。相手に受け取る権利がある状態なら右。この視点でなら「借方」「貸方」という言葉はまっすぐ意味が通る。主語が自分ではなかったということだ。
やがて記録の対象が金銭の貸借を超えて広がった。商品、備品、給料、減価償却。人名勘定でないものにも同じ左右を当てるようになった。
その時点で、借方・貸方はただ「左側」「右側」を指すだけの符号になった。
初学者が混乱するのは当然だった。意味のある言葉として始まったものが、途中で意味を失ったまま名前だけ残っている。教科書が「意味にこだわるな」と言うのは、正直と言えば正直だ。
暗礁 — そもそも、翻訳が信用できない
調べていて、いちばん驚いたのはここだった。
2022年の研究論文が、パチョーリの簿記部分について「英語5種を含む10種類の翻訳すべてが原典を歪めている」と結論している。「現行のどの英訳も信頼できるものとして扱うべきではない」とまで書いてある。
たとえば原典の ragioneri は「会計士」ではなく「数学者」、computista は「簿記係」ではなく「計算者」、scripturis は「勘定」ではなく「記録」だという。
日本語で引用されているパチョーリの言葉も、その怪しい英訳を経由している可能性が高い。
つまり「パチョーリはこう言った」という引用自体が、あまり当てにならない。500年前の本の話をするというのは、そういうことだった。
日本語の「借方・貸方」は、どこから来たか
日本語の話をする。
最初の簿記書とされるのが、福沢諭吉『帳合之法』だ。アメリカのブライアント&ストラットンという簿記教科書(1861年初版、福沢が使ったのは1871年のニューヨーク版)の翻訳になる。
- 初編(巻之一・二)=「略式」=単式 明治6年(1873年)6月
- 二編(巻之三・四)=「本式」=複式 明治7年(1874年)6月
木版、和綴じ、全4冊。「1873年に日本初の簿記書が出た」とだけ言うと、複式を扱った二編を落とすことになる。複式が日本語になったのは1874年だ。
半年遅れで、大蔵省から『銀行簿記精法』が出ている(明治6年12月)。お雇い外国人アレクサンダー・アラン・シャンドの講述をまとめたもので、こちらは単式を「単記」、複式を「複記」と表記した。書名に「簿記」を使った最初の本でもある。
背景には1872年の国立銀行条例があった。第24条に「銀行簿記」という規定があり、全国約150行に統一した簿記をやらせる必要があった。民間の啓蒙書と、国家の実務要請が、同じ年に並んで出てきたことになる。
福沢は「出」「入」のほうが分かりやすいと書いていた
では「借方・貸方」は福沢の造語なのか。ここは断定できなかった。資料によって説明が割れている。
ただ、確かなことがひとつある。福沢は訳者注で、こんな別案を示していた。
日本人に分り易くするには、或はこれを出と入とに書替へ
つまり彼自身、「借」「貸」が分かりにくいと気づいていた。
しかも江戸時代の日本の帳簿——和式帳合は、もともと「出」「入」の字で区別していた。福沢の別案は、思いつきではなく日本にすでにあった実務に沿ったものだった。
もしそちらが採用されていたら、簿記の最初のつまずきは存在しなかったかもしれない。
入方・出方。想像すると、だいぶ分かりやすい。
「借方」「貸方」という四文字の術語として固定したのは、その後の訳語統一の過程だったとされる。誰か一人が決めたというより、いつのまにかそうなったということらしい。
「帳合」は負けて、「簿記」が勝った
明治の初めは、訳語が乱立していた。
- 帳合(福沢)
- 記簿(加藤斌・小林儀秀ら)
- 簿記(シャンド、大蔵省)
しばらく三つが並走して、「帳合」は1879〜80年ごろ、「記簿」は1882〜83年以降に消えた。明治20年代には「簿記」で統一されている。
福沢は後年、こう書き残している。
簿記の字を用ひざりしは、余り俗に過ぎたる故か、今日世に行はるるを見ず
「簿記」という字を使わなかったのは、あまりに俗っぽいと思ったからだろうか。いまでは自分の訳語は世に行われていない——と。
訳語の勝ち負けを、本人が振り返っている。「帳合」のほうが日本語としては自然だと思うのだが、勝ったのは大蔵省の「簿記」だった。実務で強制されるほうが強い。

日本は一度、複式簿記を捨てている
もうひとつ意外だったこと。
- 明治3年 造幣寮に外国人を招き、複式の処理を導入
- 明治5年 国立銀行条例(第24条に「銀行簿記」)
- 明治6〜8年 『帳合之法』『銀行簿記精法』『馬耳蘇氏記簿法』が続々
- 明治9年 大蔵省が西洋式複式簿記の採用を決定
- 明治11年 「計算簿記条例」を全省庁に通達
- 明治12年 簿記講習所が開設
- 明治22年 会計法。官庁会計は単式簿記へ後退
- 明治23年 旧商法で商業帳簿制度を規定
明治9年から11年にかけて、国は複式簿記に舵を切った。ところが明治22年、官庁会計は単式に戻った。国庫制度が変わったことに伴う判断だったという。
以後100年以上、日本の官庁会計は単式のままだった。
近年の公会計改革で複式簿記や発生主義が導入されているが、あれは新しい取り組みというより130年越しの出戻りということになる。
ちなみに2月10日は「簿記の日」だ。福沢が『帳合之法』の序文を書いた日から取られている。
ゲーテの有名な一節は、本人の言葉ではない
複式簿記の話には、必ずと言っていいほどゲーテの言葉が出てくる。
複式簿記は、人間の精神が生んだ最も美しい発明のひとつである
これは本物だった。『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1795〜96年)の第1巻第10章に出てくる。
ただしゲーテ自身の地の文ではない。ヴェルナーという商人の登場人物の台詞だ。商人が自分の職業を礼賛する場面で言っている。
「ゲーテが絶賛した」と書くと、少し話が違ってくる。ゲーテが書いた商人が言った、が正確なところだ。
もうひとつ、パチョーリの言葉として有名な一節がある。
借方と貸方が一致するまで、寝てはならない
これは出典を確かめられなかった。英語版のWikipediaには載っているが典拠が示されておらず、パチョーリ研究の第一人者の論文にも言及がない。しかも前述のとおり、翻訳自体が信用できないという話がある。
いい話ほど、裏が取れない。
航路 — 500年、変わっていないのはどこか
パチョーリが書いた帳簿の流れは、三段構えだった。
- memoriale(メモリアーレ) 備忘録。取引をとにかく書き留める
- giornale(ジョルナーレ) 仕訳帳。日付順に整える
- quaderno(クアデルノ) 元帳。勘定ごとに集める
そして最後に試算表を組み、貸借対照表を作る。
いまの会計システムを思い浮かべてほしい。原始証憑 → 仕訳 → 総勘定元帳 → 試算表 → 財務諸表。
同じである。呼び名が変わっただけで、データの流れ方はそのままだ。500年、機構としては変わっていない。
変わり続けているのは、その上に載るルールのほうだ。何を、いつ、いくらで仕訳するか。
- 公正価値で測るのか、取得原価で測るのか
- 収益はいつ認識するのか(履行義務が充足されたとき)
- リースを資産に載せるのか
- 貸倒れを、発生してから見るのか、予想して先に見るのか
新しい会計基準はすべてここを議論している。そして「借方が左、貸方が右」には、一度も手を付けていない。
理由が書き残されていない並び順が、500年たっても土台のまま残っている。最初につまずくところが、いちばん動かないところだった。
ブロックチェーンで「三式簿記」になる、という話
最後に、ひとつだけ現在進行形の話を。
2020年代に入って、三式簿記(triple-entry accounting)という議論が学術誌にも出るようになった。
複式簿記の弱点は、それぞれの会社が自分の帳簿を自分で持っていることにある。売り手の帳簿と買い手の帳簿は別物で、突き合わせないと一致しているか分からない。だから監査が要る。
三式簿記は、そこに第三の記録——取引そのものを、当事者双方から改ざんできない形で残す層を足す、という発想だ。ブロックチェーンがその器になりうる、という文脈で語られている。
ただし現時点で、複式簿記が置き換わってはいない。研究段階の話だ。
ここで思い出したいのが、複式簿記が生まれた動機だった。「どの法廷に持ち出しても証拠として通る記録を残すこと」。
三式簿記が解こうとしているのも、結局そこだ。800年前と同じ問題を、まだ解いている。
会計の慣行がどれだけ動かないかという意味では、3月決算がなぜ3月なのかの話も似ている。明治のやりくりの都合が、いまも残っている。
この記事は、まだ書きかけです
この記事は、公開してから足していく形にしています。調べたことを書いた本文がまず先にあって、あとから「聞き手と話し手の会話」「あとで思い出したこと」「読んだ人から教わった補足」が積もっていきます。
だから、同じURLでも半年後には別のものになっているはずです。もし一度読んだことがある記事なら、下の更新ログだけ見てください。増えたところが分かります。
更新ログ
- 2026-09-24 公開(本文のみ。会話パートはこれから足します)

